【安倍 晋三】3: 鳩山 一郎

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鳩山 一郎1883年(明治16年)1月1日 – 1959年(昭和34年)3月7日)は、日本の政治家、弁護士。
第52・53・54代内閣総理大臣。位階勲等は正二位大勲位。

第二次世界大戦終結後、1946年(昭和21年)の総選挙で日本自由党が第一党になり、鳩山総裁が首相の指名を待つばかりとなったが、就任を目前にして戦前の統帥権干犯問題を発生させたこと等をGHQが問題視したため、同年5月7日[1]公職追放となる(軍国主義台頭に協力したとの理由の他に戦前政友会の総裁の時にナチス・ドイツのアドルフ・ヒトラーの行政政策を成功と言った事と戦後のアメリカに批判したことが各新聞の記事に載ったとの理由 ─ 統帥権や滝川事件を参照のこと)。

また追放解除目前の1951年(昭和26年)に脳梗塞で倒れた。
首相の座を目前にしての追放、病気と不運な状態が続いたことから世間の同情を集めることになった。

貴族主義的でワンマンと呼ばれた吉田茂が不人気で政権を降りた後、首相になると(1954-1956年)、鳩山ブームを起こした。在任中、盟友で寝業師と言われた三木武吉の尽力により日本民主党・自由党の保守合同を成し遂げ、自由民主党を結成。これにより保守勢力と革新(この時点では社会主義)勢力を軸とした55年体制が確立された。

また、吉田前首相のアメリカ中心の外交から転換し、懸案であった日ソ国交回復を成し遂げた。
日本の独立確保という視点から再軍備を唱え、改憲を公約にしたが、与党で改憲に必要な3分の2議席には達しなかった。

また、改憲を試みるために小選挙区制中心の選挙制度の導入を図ったが、野党からはもちろん、与党内からも選挙区割りが旧民主党系寄りという反対があり、「ゲリマンダーならぬハトマンダー」と批判され、実現には至らなかった。またエネルギー政策での功績では、原子力基本法を提出、成立させ後の原子力発電時代の礎を築いた。

1956年(昭和31年)の日ソ共同宣言により国交を回復した後に内閣総辞職、政界を引退した。その後、友愛青年同志会を育成するほかは、療養生活を送り、長男・鳩山威一郎の末っ子鳩山邦夫が学習院初等科4年から5年に進級直前、1959年(昭和34年)3月7日に没した。

なお、鳩山内閣期の1955年(昭和30年)に、在日米軍の駐留を認める旧日米安保に代わる条約として、在日米軍を撤退させ日本の集団的自衛権を認める「日米相互防衛条約」を検討し、重光葵外相がアメリカに打診したが、国務長官だったジョン・フォスター・ダレスは日本の軍備の不十分さなどから非現実的とこれを一蹴した[3][4]。同席していた岸信介(党幹事長)はこのダレスの対応に大きなショックを受け、安保条約の改正のためには自主防衛努力の姿勢や西側陣営に属することを明確化する必要性があることを痛感、自らの政権でそれを実現していくことになる。

1952年〜1954年頃、内閣総理大臣吉田茂(左)と文京区音羽の自邸、通称「音羽御殿」は、高等師範学校附属中学時代からの友人で建築家の岡田信一郎による設計。

体が不自由だった鳩山は自邸を政治の場に活用し記者会見にも利用した。また、1945年に発表された「ピース(平和)」という名前の品種のバラを気に入り、音羽御殿に100本以上植えさせた。現在は鳩山会館として一般に公開されている。

文部大臣時代の1933年、聾学校での手話教育を口話教育に転換させた。
第一高等学校に入学が決まり、当時、皆寄宿寮制度であった一高の不衛生で蛮カラな寮に息子を入れる事を嫌がった母・春子が、当時の校長の狩野亨吉と自宅通学の可否を巡り悶着を起こすが、結局狩野校長に『入寮がお嫌いなら他の学校を選びなさい』と言われ、それでも『鳩山家には鳩山家の家庭教育が御座いますから』と食い下がる春子に、狩野は『じゃ、学校も廃して家庭教育にしたらよいでしょう』と言われ、しぶしぶ一郎を入寮させる。結果として一郎は春子が懸念するまでも無く、快適な寮生活を過ごした。

鳩山が結婚前に薫に宛てたラブレターは本に纏められて『若き血の清く燃えて』(講談社、1996年)として刊行されている。

教育者の家庭に育ち、政治家としてはアクの強さに欠ける面があったようだが、盟友の大野伴睦や三木武吉らに支えられ、政党政治家として筋を通した。

政界一家の2代目かつお坊ちゃん育ちのせいか、時折気に入らないことがあると同志や家族に向けて癇癪を起こすことがあり、妻の薫に対しても暴力を振るうことがあった。それに対して薫は「私を相手に暴力を振るうことがあっても同志の方にそのような振舞いをしてはいけません」と言って夫を諭した。後に脳梗塞で倒れても、以前の薫の教えを守っていたために同志達が離れることもなく、以後鳩山は薫を非常に大切にするようになったのだと言う。孫の邦夫の幼時の回想では、癇癪を起こした際に取り成す役目も薫がしていた。

分派政党を作っては合流といったことを繰り返したため、保守合同時の自由党総裁だった緒方竹虎から「出たり入ったり、また出たり」と皮肉を言われたのは著名な逸話としてよく知られる。
クリスチャン(キリスト教徒)でなおかつフリーメイソンである。

戦後、青森へ遊説に行くため、上野で汽車に乗ろうとすると、車両が中華民国人に占拠され、車両を出て行こうとしない老人が殴られるのを目撃した。青森から東京に戻る際には、朝鮮人が列車を占拠しようとしたが、駅長が拒否するという事件にあった。
自衛隊はこういうことが起こらないために必要だと述べている。
大の甘党で、赤飯に砂糖をかけて食べたという。

バラの花を好み、総理在任中も休日には「とどろきばらえん」(東京都世田谷区)を訪れバラを観賞し、苗木を購入、自宅の庭に植えさせている。政界引退後はバラ栽培に没頭した。

プロスポーツにも造詣が深く、読売ジャイアンツでは後援会会長を務めた。

ウィキペディアからの引用です