ジョン・ロックフェラー, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=796585 / CC BY SA 3.0
#ジョン・ロックフェラー
#アメリカ合衆国の実業家
#アメリカ合衆国の慈善家
#ロックフェラー家
#ニューヨーク州タイオガ郡出身の人物
#1839年生
#1937年没
ジョン・デイヴィソン・ロックフェラー・シニア(John Davison Rockefeller, Sr、1839年7月8日 – 1937年5月23日)は、アメリカ合衆国の実業家、慈善家。
1870年にスタンダード・オイル社を創業し、ピーク時はアメリカの石油の90%をコントロールするなど、同社は石油市場を独占してアメリカ初のトラストを結成した。
1897年に事実上引退し、その後は現代的フィランソロピーの構造を定義し、慈善活動に力を入れた。
スタンダード・オイルはオハイオ州で、ジョンと弟ウィリアム・ロックフェラー、ヘンリー・フラグラー、ヤベツ・A・ボストウィック、化学者サミュエル・アンドリュース、スティーヴン・V・ハークネスによって創設された。
ケロシンとガソリンの需要の高まりと共に富も膨れ上がっていき、アメリカ人初の10億ドルを越える資産を持つ人物となった。
彼が亡くなった1937年当時の遺産は14億ドル(2015年の価値では23億ドル)にも上り、国の経済の1.5%以上であった(2013年換算では2530億ドルになる)。
物価の変動を考慮すると史上最大の資産を持つ富豪とされている。
慈善活動の現代的かつ体系的アプローチの構築に引退後の40年間、資産の大部分を使った。
医療・教育・科学研究促進などを目的とした財団を創設した。
彼が創設した財団は医学研究を推進し、鉤虫症や黄熱病の根絶に貢献した。
また、シカゴ大学とロックフェラー大学を創設し、フィリピンにセントラル・フィリピン大学の創設資金を提供した。
熱心なバプテスト信者であり、生涯にわたって米国バプテスト同盟を支援した。
彼は酒とタバコを嗜まなかった。
リッチフォードの生家 ニューヨーク州リッチフォードで、ウィリアム・エーヴリー・ロックフェラー(1810年11月13日 – 1906年5月11日)とその妻イライザ・デイヴィソン(1813年9月12日 – 1889年3月28日)の6人の子供の2番目として生まれた。
系図学者は、祖先の一部はフランスのユグノーで、17世紀にドイツに逃れたとしている。
父はかつて林業を営んでいたが、巡回セールスマンとなり「植物の医師」(botanic physician) を名乗ってエリキシールを売り歩いた。
近所の人々はそんな珍しいもの好きの父を “Big Bill” とか “Devil Bill” と呼んだ。
旅に出ていることが多く、家には闖入者のように時折帰ってくるだけだった。
父は生涯に亘って真面目に働こうとせず、常に一山当てようと目論んでいるような男だった。
イライザは信心深いバプテストであり、夫が不在の間家庭を維持するため奮闘した。
夫は頻繁に外に女を作り、時には重婚していたこともあるが耐え抜いた。
自然に倹約が常となり、息子には「故意の浪費は悲惨な欠乏を招く」と教え込んだ。
若きロックフェラーも家事を手伝い、七面鳥を育てて金を稼ぎ、ジャガイモや飴を売ったり、近所に金を貸すなどして家計を助けた。
「小皿を大皿と交換しろ」という父の助言に従い、彼は常に取引で有利になることを心がけていた。
父は「チャンスがあれば息子達も騙す。そうして奴らを敏感にしたい」と言っていた。
少年のころ一家でニューヨーク州モレイビアに引越し、1851年にはさらに同州オウィーゴに引越しており、オウィーゴでは学校に通っている。
1853年、クリーブランド近郊のストロングスビルに移った。
クリーブランド中央高校で学び、商業専門学校で10週間のビジネスコースを受講し簿記を学んだ。
父の不在と頻繁な転居にも関わらず、ロックフェラーは行儀がよく、真面目で、熱心な少年に育った。
当時を知る人は彼を、控え目で真面目で信心深く几帳面で分別があったと評している。
議論がうまく、正確に自分の考えを表現できた。
また音楽好きで、将来それで身を立てたいという夢を持っていた。
早くから算術と経理の才能を発揮した。
18歳のロックフェラー(1857年ごろ) 1855年9月、16歳のとき、製造委託会社 Hewitt & Tuttle にて簿記助手の職を得た。
長時間働き、そのオフィスの仕事の全てに精通するようになる。
特に輸送費の計算に熟達し、そのことが後々大いに役立った。
最初の3カ月間の給料は50ドル(1日あたり50セント)だった。
当初から給料の約6…
